会社の掃除をしている時

みなさっさと終わっていくなか

角のホコリが気になって最後までやっていた

容量のわるいバカな娘 世の中に淘汰されていく弱い立場の人間だと

心の中で嘲笑った人がいるかもしれない

すぐにやめたかったけれど

角のホコリが気になって仕方なかった

 

誰もやらないからたまってるんだから

気づいた私が 時間を使うことにしよう

(結果次の会議ギリギリ間に合いました)

 

今後は

掃除なんか適当にやろう こんな会社きらいだし

って思った

 

だけど多分わたしにそれはできない

そうしようとしたら

たとえばあれを見てくれた人がいたら・・・

考え方をその人が知ったら・・・

その人を裏切ることになるんじゃないかな

 

そして 例えばあの時角のホコリが気になった自分が

今後それを見て見ぬ振りをすることは

自分の中の自分にうそをつくことになるんだ

 

今までそうしてきたことがたくさんあった

 

その度ブレブレの自分にうんざりしてきたし

本当に大切な人を傷つけることになったじゃないか

 

 

私は角のホコリを掃除するところを誰が見ていなくてもやる

そうしたいからやる

 

だって例えば

見えないところで 角のホコリを掃いてくれたり 

蜘蛛の巣とりをしてくれたり

そんな人を見たら

そんなところが素敵だと それだけは伝えられるひとになりたいから

 

逆にそんな言葉をかけてくれる人がいたら

そんな人こそ大切にしていきたい

 

意味じゃなくて無償でできることがあって

それはとても力を持っている気がするから

 

 

かつてパートタイマーで平凡で 年中家事と仕事に忙しい

そんな母のようにはなりたくないと言ったことがある

言っちゃいけないって思っている言葉を

自分の反発に目もくれず平然と口にしたことを他でもなく自分が後悔していた

 

きづいたのは

私は意味というものさしで人を測っていたこと

私はそれに虚無を覚えている のに

そこにある虚無感に目を伏せて

言い訳のように言葉の暴力を振るっていた

 

私は母のようになりたいのだ

恩返しもろくにできないいい歳した娘を今でも泣くほど心配してくれる

無償の愛を与えてくれる母のような人になりたい

発作的なネガティブ

やっぱり里帰りは体に毒だ

二番目の妹になれなくて苦しいのだ

全てを自分の味方につける

妹の存在こそが正しい生き方で

世間の価値観と比較すると

十分すぎるくらい正しいのだ

 

私は淘汰されていく

できの悪い人間は所詮何者にもなれないのだ

世間の価値観に擦り寄ることもできなければ

自分の価値観を確率することもできない

中途半端なままにおいといて

半透明なまま人生が終わっていく

 

 

他人になどなれないし 鳴る必要もないのに

強いものに従うことが正しいとは限らないのに

卑怯にも身近な人間を裏切ってまで

強い人にあわせて

大切な人をも傷つけて

 

漫画見たく きっかけがあって

反省をして やりなおすチャンスがきて

やり直して 取り戻せるものであればいいのになぁ

 

現実には 失った時に見えていたはずのものは

もうとっくにどこかへ消えたし

そのことから目を背けるのに慣れた頃には

自分のしたことを忘れてしまっているのだ

漫画の中の真の正しさは理想論でしかなくて

つっかえたその正義という価値観と

自分のギャップに

ただただもがいている

 

私は私のことしか見れない

私の中のものと一生戦うのだ

たとえば論理的なひとに惹かれて

そんな主人公が好きで

バカなくせにやたらと推理物がすきなのだ

その人にあこがれているから

それをバカにされるのがこわくて誰にも言えなかったりする

 

私はいつだって

私個人のプライドや体裁を守るのに常に必死なのだ

それもその場しのぎの

 

他人のことに感情を動かしたことがあっただろうか

どうでもよいことばかりだった

 

物心ついた頃には 3つ下の妹が生まれていて

いつのまにか

私が黙っていればそれで波風は立たないことがわかって

主張を諦めた

今も 主張したいことなど

その場で起こる感情くらいしかない

だから論理的な主張はできなくていつでも言いくるめられた

理想とは違う現実の自分の姿がひどく情けなかった

悔しかった

 

どうやら芸術と呼ばれる類のものであれば

感情を出すことを許されているのを感じたのと

それなら一人でもできたので

絵を描いていた

 

どうやらそう言った類であれば

何かしらの付加価値をとりつくろえるのだと身をもって知ったわたしは

そちらにばかり気を取られ続けた

異端なファッションだとか、ネット社会だとか、ファッションとしての絵だとか、楽器の演奏だとか、照明さんだとか、デザインだとか

薄っぺらいバリアをはる思春期だった

 

 

このまま

たとえば思うほど掘り下げたものがあったとして

そのゴールは

誰かをしあわせにするのだろうか

私自身の、自己満足と

勘違いをしているのではないか

気づけば大切なものには距離をつくり

嫌いなものを踏み潰すことを私はゴールとしている気がするのです

 

大事だとわかりきっている家族の元へ帰るといつも

家族や親戚のなかでの価値観は

全て私の立ち入る隙はなく

こんな満遍ない幸せな家庭で生きてきたのに

何をしてもむなしさがそこにあるのは

私が嘘つきだからなのだろうか

 

私は実家に帰れば車を運転できるから足としてしか認知されてないんだとか

二番目の妹の「姉」でしかないんだって

主張もない 流されるだけ

そのくせ金を使って気を引こうとする

奇をてらって気を引こうとする

そんなところなのだろうか

 

私が存在する理由は 妹の盾に、風除けになる

ただそれだけ

いつでも誰かの引き立て役

風景を作るエキストラ

いっそお金という確かな価値のつく保証というシステムに甘えて

自分の命を差し出したほうが

物理的に家族の役にたてるのだろうか

そこで家族に深い悲しみが残ろうが

私には関係ない

頭のおかしいくらいの才能は
デザインにおいては非凡なくらい平凡な感覚に耳を傾ける姿勢だと思った
ロジックだけでは完結しない
五体満足な人間には 五感があるし、一つ欠けたとてどこかがより研ぎ澄まされるから

ほとんどの場合欠けてはいけないもの。


模倣のその先は平凡な感覚に立ち戻りなさい
行った来たしなさいと
東京出張でのメモ。

 

ロジカルの量も、平凡な感覚への気づきも、

それをストックする許容と、速度の、違いで でも
初めは量でしかないんだよって言われました。


キーパーソンみたいな人はいつもとっても身近にいることを 何年も忘れていたとは
ここに来て歯車が回って来たみたいな感覚。朝だなぁ

ただのメモです

くやしいがそのとおりだ、、、、、、、まとめてかたちにしてこそ、だ、、、

ひとつひとつが浅い意味がわかってた、きでいたのだけれど、、、、、

感情と向き合うのがいつもはやすぎるのか、ああ、、、ああはなりたくないとおもいつつも、やっっぱりそこは要領をえてるな、くそう

上司に対してちょっと負けたくないみたいなのを考えていた小娘です。

何にでもお金が発生する、その前提を

なんの抵抗もなく受け入れられる、無機質にラインをひけることが羨ましく、

自分にはそれがとてつもなく難しいので

悔しくもある

社会人だったら仕事の時はそういう人になりきるべきなのかなぁ?

私が思っていたとはちがう、デザインの世界、

でも これが見えてなかった現実なのかもなあ。

抗うべきか、自分の感情に従うべきか、学ぶべきか

簡単じゃないだろうけど 自分を殺さない程度に、身につけておくと生きやすい(仕事しやすい)スキルなのかもしれないなあ。

 

いつも うすっぺらいもんはつくりたくないと

ひとつひとつの作品に時間をかけすぎるんだけどそれはアートの世界だと思え、

次々出さないと次の情報をいれるスペースがなくなるし時間は有限

とにかく完成させること

って高校の先生に言われたん思い出した

 

完成させること、終わらせること

カテゴライズされた 「かたち」にすること

自分の今とびこんだ業界はまさにそこの部分をやってるってことを忘れていた

ひとりモヤモヤしてたってしかたがない

手段を考えて作り終えてみないと反省のしようがない

 

というのも、平面構成やったことないけどみててやりたいなー思ったのと

最近いろいろがあったことで気づいた

モチーフに意味を求めてはいけない

意味はあとから人間がつけるもんだって

オレンジの質感や水の質感、流れ落ちる時の見え方、法則、

かたいガラスに反射した時の模様やパンにフォークが刺さっているように見えるひとつひとつの線の造形

陰影がわかる配色、トーン、色相

オレンジやガラスを作るわけではなく、

目の前にあるモチーフが現実世界にあって人間がそれを視覚的に判断する時何を持って理解するのか

そこに気づくことが大切だったんだなあ

配置を決めて、かたちをとって、不自然なく書き取って色を決め、絵の具で色を塗り、一枚の作品に仕上げる、という、作業。を行う。われわれが手を動かし、お金をもらい、時間と労をついやすべきはそこ

 

わかってたつもりだった

手を動かしてモチーフを表現する段階では、

そこで感情と向き合う余地はなくフラットに、その対象に向き合うべき

 

 

そうはいえども、、

フライヤー一枚作るにも

予算内で納めるには色数を減らすのか?ロット減らすのか?データ入稿でデザインは受けないのか?選択肢が多くて自分でもこんがらがるし、

紙どんなのがいいとか色合いはここをこうしてほしいだとか

結局自分に害が及ばなければ相手の思った通りのもんにしてあげればいいんだろっていうどこか無責任な感情がせめぎあって

なかなか実際の行動に反映させるというのは難しい。

自分のことばがどれほどきれいごとの羅列だったか。

現実ってむずかしい〜〜

そして環境に慣れると、人にたいして感情をむき出しにするから自分が怖い。

自分に湧き上がる感情に、セーブをかけたい。

セーブをかける術が欲しい。。

 

 

ことばはテーマ

私はネガティブなことや皮肉はいくらでも言葉にするのに
美しいや好き、綺麗 と感じたものは 視覚表現に変換する癖があります

ふとポジティブなことや

美しいと思ったことを言葉で表現しようとしたら

ネガティブに比べ全く出てこないことに気づいて愕然としています。

(すごく面白いと思った本があるのに、感想文、かけない!要約、、できない!)

(楽しかった時の感想を写真の詰め合わせや一言で表せない!)

 

やばい!さいこう!

などの言葉で完結させているとだんだんと言葉が出なくなって行くものなんですね。

 

「ことば」はひとの考えや心を理解する材料だと思います。

現に、自分だって他人を推し量る判断材料はまさしく言葉。

 

そして他人ん中になんらかの感情を生む要因にも、なりうる。だから、

プラスの感情の言葉の表現幅を広める練習は普段からやっておいたほうがいいなぁ・・・と痛感しました。

多かれ少なかれ、人間は言葉が内包する意味や感情を感じ取る生き物だから

自分が受け取る場合、他人に投げる場合、その先の化学反応をある程度読める大人になりたいものですね。

 

 

よだん

 

私は絵を描くのが昔から好きでした。人と話すのが苦手なかわり、

紛れもない自己表現が許される白い空間や鉛筆の匂い。安心できる行為でした。

大人になって言葉というもの、社会というものを理解し使い方が複雑になるにつれ

絵を描けなくなりました。

いろんな理由を考えてますが

これも言葉で表現しようとするのはあえてやめてます。

ことばには、引っ張られるから。

意味がなくても、自分の感情に嘘をつかずに絵を描ける 子供はほんとうに無垢ですよね。

子供みたいなばーさんになるのが目標です。

 

はて、どの本の紹介(感想交え)しようかなあ。

読む本読む本発見があって毎日忙しいです(しあわせ)。

私が一生わからないかもしれないもの

大切なものだからこそ

近づくと

意図しない行動や言動で傷つけていないか

きになってしかたなく

結局うわべで過ごしてしまい

結果的に傷つけたのではないかと

おもいながらかえってきた

自分の大切なものが他人にとってもそうであることなんて

そう多くはないのに

わたしはそれを押し付けることで

大切な人を傷つけたのではないか

 

うーん

 

大切にしたいからこそ、距離をとる。

あると思います。