うた

はじめたことには意味があって

きっと私にとっては歌も、絵も、デザインも、ギターも、ピアノも、全部必要で

どれかひとつに絞る必要はないのだと思った

底上げをするだけ

もうわかっている

私がなりたいのはデザイナーの肩書きではなくて

ボーカリストとか芯がーとか肩書きでもなくて

ピアノの賞でもない

だけど融和された見守られるスタンス、技術は妥協の上

甘えを伴った横のつながりを広げるためだけのコミュニケーションツールでは絶対ない

それだけが確かだったけれど

それを証明すべく努力をしていなかった

そのスタンスを自分で理解していなかった

なぜなら「言葉」が便利すぎたから

言い訳の引き出しだけをどんどん膨らませてた当時の私は

結局男女関係で何がしたいかわからないけど消えた愚か者となった

 

つまり自分が望む結果にならないやり方だった

(私には合わないやりかただった)

口で何かを申す前に

手を動かして証明するしかないのだ

それはデザインの仕事も、趣味としてやる歌も、絵も、ライブもかわらない

 

ロジカルがとか言葉で考える前に

やるべきことをとりあえず何も考えずにやるだけ

苦手なことから遠回りをする必要はない、人生は有限だから

必要なのは何をどうしたいのか自分なりに決めることだった

わかっているよと言葉でカバーした結果が

やりたい方向性をどんどんと遠ざけていた

ならば

わかっているんだなっていうのは行動で示すしかないのかも

 

 

今はまだ怖い

逃げ出したり投げ出して来たことが多すぎる

今まで信じて来た自分のマックスのレベルが どれも続けなかったことによって

世に認められる(賞とか、名誉とか、数字とかの判断基準)

形になっていないから

世の中うまく渡っていくのは私には無理だけど

やりたいことを続けるということなら

少し無理をしてもやってみる価値があると思う

ー時間を犠牲にする、とか無駄にする、とかうだうだと考えていたけれど

その何年の時間が一番無駄だった

有意義に生きたい、から

有限の人生を使ってやってみる

我が人生を 何かや誰か、自分自身をしっかりと見つめ、問い、愛すために

 

仕事でのデザインはあまりうまくいっていない

デザイン案件が私にはもらえない

それは実力がないからなのか世渡りが下手だからなのか

でも努力が足りないとは思う

まだやり方がうまくつかめていないけれど 頑張っているかと問われれば

甘えていると思う

なりたいのは「デザイナー」肩書きのオペレーターじゃなくて

ほかの誰か1人の心に響く物やことをつくる「一流のデザイナー」だ

だからそのために

賞だってほしいし もっとアンテナをのばしたい

わたしは普通がわからないから

普通であることをもう一度日頃から探していく姿勢をつくりたいと思った

いつも「今、逃げていないか?」を自問自答するよう最近しているけれど

自己の意識だけで何かを捉え直すのは難しいと思う

 

それを続けるためにもひとと出会い、

人を見つめる

私にとってはそのために頭をクリアにする作業が「絵を描くこと=ものを捉えようとする視点」であり

たぶんカンはあるのにうまくアウトプットできない運動神経の悪さが極端だから

音楽が必要なんだと思う

音楽活動は趣味だし、っていうゆるさと

誰にも頼らず自我だけを信じて来たけれど

あきらかにきちんとしたトレーニングやレッスンが必要だなって最近思った

他人の知識や視点をもらったほうがあきらかに近道だから。

私のやりたいアウトプットは、トレーニングが必要だ

私は自由奔放を望むようでアーティストではない。

ある法則やルールを守った上で成り立つ人間の知識が故のアート性に惹かれている「凡人」なのだ。

 

 

毎日残業とか職場の人間関係にイライラしながらオペ作業しているけれど

それをいかに短く済ませ、本来の目的「一流のデザイナー」になるため自分の時間をつくれるかだなって思った

盗めるもんは盗むし、自分の効率の悪さはおすみつきだから

そういう無駄を省く方法を先輩から教えてもらおうと思う

あとはアンテナ

「普通」「はやり」「一般的な感性」VS「個性」「オリジナリティー」

を的確にふりわけていく作業に間違いがないかどうか

丁寧に、かつ迅速にコンセンサスをとる方法を考えなきゃって焦っている

 

そもそも昔からこの混同が激しくて、

だからズレた子なんだけど

このズレを修正すべきか生かすべきかまだわかっていない

固めるべき基礎を、とにかく今は追求することで手一杯だ

クリエイティブがこんなに難しいこととは知らなかった

 

自分のきめた道だから

あとしばらくは無駄だと思うことを続けてみよう

 

自分に対する甘えと、無駄だと思うような作業と、見えないところを綺麗に仕上げる非効率的だと思える作業を

地道にやる期間にしてみようと思う

きめてないけど、ひとまずそれが習慣になるまで

ピアノを始めるのは

それを実行できるか自分への戒めでもあります

これが続かなければ

その理由をさぐりつつ

諦める時は本気で全てを諦めよう

 

そんな最近です

 

はしりがき

続けることというのは

あるときふいに引き出し開けて取り出せるものではない
例えば今のデザイナーの仕事がそうで 余白や文字や色や、美的感覚の全てを 考える

というのはやはり いつでも誰でも、はできないと思う
そこには訓練や知識が必要だし 頭を使う作業だと思う 

 

だから、体を動かして作業する工務が一番偉いだとか、

仕事取ってくる営業が一番偉いだとか、

管理職は名ばかりだとか、制作はなにやってるかわかりづらいから暇だとか、
見当違いに感じるなぁ

暇だとか、人の揚げ足や皮肉はいくらでも、いつでも取り出せるけれど 
見るべきところって本当にそこなんだろうか?
それぞれ役割をわけているのは、

それぞれが同じウェイトで必要だから、専念するために 分けられているのでは?

 


であれば、上下をきめるよりも
バトンのスムーズな回し方を考えたほうが皆が気持ちよくできるのになぁ…
と、
他部署の気に入らないところを羅列しているだけの女性の上司を見て悲しく思っているところです。

まぁ、これの本質はきっとその方は

’業務を改善したい’ではなく

’愚痴を言ってスッキリしたい・自分の立場が上ということを示唆したい’

だと思うから

体制を変えるとか業務レベルでの改善は意味をなさない気がする

端的に言えばその方の心の中の問題としか言いようがない

結局一個変えても永遠に彼女の中での愚痴は止まらないし、それが楽しいんだとも思う

わからんでもないけど

組織としてはそれに取り合うだけ無意味というか

 

会社内部じゃなくて外部を見て自分に刺激を与えることの方が

私個人としては大切だから

あんま社内の人間関係の愚痴、聞きたくないし その話するだけ無駄だと思うようにしてる

 

 

だって仕事中だけじゃなくて普段から。
考えるウェイトを常にどこに置くかは、その人次第だと思う。


視点はいつでも変えられるが、自分にしか変えられないもの。。

 

性質の違う人間はそれぞれにそれぞれの視点があり
それは完全に一致する相手はそういない。

だからもちろん理解すらできないところもあれば
他人は一部、本当に自分の鏡だと思うほど一致する部分があるはず。。

自分が人に対して発した批判の言葉は 自分に向けた戒めになることがよくあるように

よりそおうとすれば 相手も同じ距離だけ寄り添う気がする

意識して、他人に 目を凝らしてさえいれば。

感情に顔をうずめるその前に少し、自分の目で、にただただ 相手を見てほしい。

 

自分大好きっていう独裁的な人には要らない視点なのかもしれないけど、

私はそういう人であればシャッターを下ろします、完全に。

会社の掃除をしている時

みなさっさと終わっていくなか

角のホコリが気になって最後までやっていた

容量のわるいバカな娘 世の中に淘汰されていく弱い立場の人間だと

心の中で嘲笑った人がいるかもしれない

すぐにやめたかったけれど

角のホコリが気になって仕方なかった

 

誰もやらないからたまってるんだから

気づいた私が 時間を使うことにしよう

(結果次の会議ギリギリ間に合いました)

 

今後は

掃除なんか適当にやろう こんな会社きらいだし

って思った

 

だけど多分わたしにそれはできない

そうしようとしたら

たとえばあれを見てくれた人がいたら・・・

考え方をその人が知ったら・・・

その人を裏切ることになるんじゃないかな

 

そして 例えばあの時角のホコリが気になった自分が

今後それを見て見ぬ振りをすることは

自分の中の自分にうそをつくことになるんだ

 

今までそうしてきたことがたくさんあった

 

その度ブレブレの自分にうんざりしてきたし

本当に大切な人を傷つけることになったじゃないか

 

 

私は角のホコリを掃除するところを誰が見ていなくてもやる

そうしたいからやる

 

だって例えば

見えないところで 角のホコリを掃いてくれたり 

蜘蛛の巣とりをしてくれたり

そんな人を見たら

そんなところが素敵だと それだけは伝えられるひとになりたいから

 

逆にそんな言葉をかけてくれる人がいたら

そんな人こそ大切にしていきたい

 

意味じゃなくて無償でできることがあって

それはとても力を持っている気がするから

 

 

かつてパートタイマーで平凡で 年中家事と仕事に忙しい

そんな母のようにはなりたくないと言ったことがある

言っちゃいけないって思っている言葉を

自分の反発に目もくれず平然と口にしたことを他でもなく自分が後悔していた

 

きづいたのは

私は意味というものさしで人を測っていたこと

私はそれに虚無を覚えている のに

そこにある虚無感に目を伏せて

言い訳のように言葉の暴力を振るっていた

 

私は母のようになりたいのだ

恩返しもろくにできないいい歳した娘を今でも泣くほど心配してくれる

無償の愛を与えてくれる母のような人になりたい

二番目の妹になれなくて苦しいのだ

全てを自分の味方につける

妹の存在こそが正しい生き方で

世間の価値観と比較すると

十分すぎるくらい正しいのだ

 

私は淘汰されていく

できの悪い人間は所詮何者にもなれないのだ

世間の価値観に擦り寄ることもできなければ

自分の価値観を確率することもできない

中途半端なままにおいといて

半透明なまま人生が終わっていく

 

 

他人になどなれないし 鳴る必要もないのに

強いものに従うことが正しいとは限らないのに

卑怯にも身近な人間を裏切ってまで

強い人にあわせて

大切な人をも傷つけて

 

漫画見たく きっかけがあって

反省をして やりなおすチャンスがきて

やり直して 取り戻せるものであればいいのになぁ

 

現実には 失った時に見えていたはずのものは

もうとっくにどこかへ消えたし

そのことから目を背けるのに慣れた頃には

自分のしたことを忘れてしまっているのだ

漫画の中の真の正しさは理想論でしかなくて

つっかえたその正義という価値観と

自分のギャップに

ただただもがいている

 

私は私のことしか見れない

私の中のものと一生戦うのだ

たとえば論理的なひとに惹かれて

そんな主人公が好きで

バカなくせにやたらと推理物がすきなのだ

その人にあこがれているから

それをバカにされるのがこわくて誰にも言えなかったりする

 

私はいつだって

私個人のプライドや体裁を守るのに常に必死なのだ

それもその場しのぎの

 

他人のことに感情を動かしたことがあっただろうか

どうでもよいことばかりだった

 

物心ついた頃には 3つ下の妹が生まれていて

いつのまにか

私が黙っていればそれで波風は立たないことがわかって

主張を諦めた

今も 主張したいことなど

その場で起こる感情くらいしかない

だから論理的な主張はできなくていつでも言いくるめられた

理想とは違う現実の自分の姿がひどく情けなかった

悔しかった

 

どうやら芸術と呼ばれる類のものであれば

感情を出すことを許されているのを感じたのと

それなら一人でもできたので

絵を描いていた

 

どうやらそう言った類であれば

何かしらの付加価値をとりつくろえるのだと身をもって知ったわたしは

そちらにばかり気を取られ続けた

異端なファッションだとか、ネット社会だとか、ファッションとしての絵だとか、楽器の演奏だとか、照明さんだとか、デザインだとか

薄っぺらいバリアをはる思春期だった

 

 

このまま

たとえば思うほど掘り下げたものがあったとして

そのゴールは

誰かをしあわせにするのだろうか

私自身の、自己満足と

勘違いをしているのではないか

気づけば大切なものには距離をつくり

嫌いなものを踏み潰すことを私はゴールとしている気がするのです

 

大事だとわかりきっている家族の元へ帰るといつも

家族や親戚のなかでの価値観は

全て私の立ち入る隙はなく

こんな満遍ない幸せな家庭で生きてきたのに

何をしてもむなしさがそこにあるのは

私が嘘つきだからなのだろうか

 

私は実家に帰れば車を運転できるから足としてしか認知されてないんだとか

二番目の妹の「姉」でしかないんだって

主張もない 流されるだけ

そのくせ金を使って気を引こうとする

奇をてらって気を引こうとする

そんなところなのだろうか

 

私が存在する理由は 妹の盾に、風除けになる

ただそれだけ

いつでも誰かの引き立て役

風景を作るエキストラ

いっそお金という確かな価値のつく保証というシステムに甘えて

自分の命を差し出したほうが

物理的に家族の役にたてるのだろうか

そこで家族に深い悲しみが残ろうが

私には関係ない

頭のおかしいくらいの才能は
デザインにおいては非凡なくらい平凡な感覚に耳を傾ける姿勢だと思った
ロジックだけでは完結しない
五体満足な人間には 五感があるし、一つ欠けたとてどこかがより研ぎ澄まされるから

ほとんどの場合欠けてはいけないもの。


模倣のその先は平凡な感覚に立ち戻りなさい
行った来たしなさいと
東京出張でのメモ。

 

ロジカルの量も、平凡な感覚への気づきも、

それをストックする許容と、速度の、違いで でも
初めは量でしかないんだよって言われました。


キーパーソンみたいな人はいつもとっても身近にいることを 何年も忘れていたとは
ここに来て歯車が回って来たみたいな感覚。朝だなぁ

ただのメモです

くやしいがそのとおりだ、、、、、、、まとめてかたちにしてこそ、だ、、、

ひとつひとつが浅い意味がわかってた、きでいたのだけれど、、、、、

感情と向き合うのがいつもはやすぎるのか、ああ、、、ああはなりたくないとおもいつつも、やっっぱりそこは要領をえてるな、くそう

上司に対してちょっと負けたくないみたいなのを考えていた小娘です。

何にでもお金が発生する、その前提を

なんの抵抗もなく受け入れられる、無機質にラインをひけることが羨ましく、

自分にはそれがとてつもなく難しいので

悔しくもある

社会人だったら仕事の時はそういう人になりきるべきなのかなぁ?

私が思っていたとはちがう、デザインの世界、

でも これが見えてなかった現実なのかもなあ。

抗うべきか、自分の感情に従うべきか、学ぶべきか

簡単じゃないだろうけど 自分を殺さない程度に、身につけておくと生きやすい(仕事しやすい)スキルなのかもしれないなあ。

 

いつも うすっぺらいもんはつくりたくないと

ひとつひとつの作品に時間をかけすぎるんだけどそれはアートの世界だと思え、

次々出さないと次の情報をいれるスペースがなくなるし時間は有限

とにかく完成させること

って高校の先生に言われたん思い出した

 

完成させること、終わらせること

カテゴライズされた 「かたち」にすること

自分の今とびこんだ業界はまさにそこの部分をやってるってことを忘れていた

ひとりモヤモヤしてたってしかたがない

手段を考えて作り終えてみないと反省のしようがない

 

というのも、平面構成やったことないけどみててやりたいなー思ったのと

最近いろいろがあったことで気づいた

モチーフに意味を求めてはいけない

意味はあとから人間がつけるもんだって

オレンジの質感や水の質感、流れ落ちる時の見え方、法則、

かたいガラスに反射した時の模様やパンにフォークが刺さっているように見えるひとつひとつの線の造形

陰影がわかる配色、トーン、色相

オレンジやガラスを作るわけではなく、

目の前にあるモチーフが現実世界にあって人間がそれを視覚的に判断する時何を持って理解するのか

そこに気づくことが大切だったんだなあ

配置を決めて、かたちをとって、不自然なく書き取って色を決め、絵の具で色を塗り、一枚の作品に仕上げる、という、作業。を行う。われわれが手を動かし、お金をもらい、時間と労をついやすべきはそこ

 

わかってたつもりだった

手を動かしてモチーフを表現する段階では、

そこで感情と向き合う余地はなくフラットに、その対象に向き合うべき

 

 

そうはいえども、、

フライヤー一枚作るにも

予算内で納めるには色数を減らすのか?ロット減らすのか?データ入稿でデザインは受けないのか?選択肢が多くて自分でもこんがらがるし、

紙どんなのがいいとか色合いはここをこうしてほしいだとか

結局自分に害が及ばなければ相手の思った通りのもんにしてあげればいいんだろっていうどこか無責任な感情がせめぎあって

なかなか実際の行動に反映させるというのは難しい。

自分のことばがどれほどきれいごとの羅列だったか。

現実ってむずかしい〜〜

そして環境に慣れると、人にたいして感情をむき出しにするから自分が怖い。

自分に湧き上がる感情に、セーブをかけたい。

セーブをかける術が欲しい。。